フランツ・リスト(1811-1886)

オーストリア帝国領内ハンガリー王国のライディング(ドボルヤーン、当時はショプロンに、現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父アーダム・リストと、オーストリア人(ドイツ人)の母アンナの間に生まれた。ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。

家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であった。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていた。数ヶ国語に通じながら結局、生涯ハンガリー語だけは覚えなかった(説明必要)ことを疑問視する声もあるが、被征服民族の言語は使用機会が少なく、血統的にも生地的にもハンガリー人でありながらドイツ語しか話せない人が少なくなかった時代であり、必ずしも非難にはあたらない。歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。

家名の本来の綴りは List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では sz の綴りで /s/ を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。

1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。その時の石版画が1873年、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(ただし無署名である)。

1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。

1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。

マリーと別れた(1844年のこと。原因は「リストマニア」と呼ばれる熱狂的女性ファンと多数の情事にふけったことと言われる。)後、再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。

1859年にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。1861年にはローマに移住し、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』はドビュッシーにも影響を与えた。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの12音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアンの移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。

リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。

1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。

ピアノ協奏曲第一番変ホ長調

第一楽章♪♪

リストを囲みて                ダンハウザー


第二楽章
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マリー・タグー伯爵夫人     レーマン


第三楽章
♪♪

フランツ・リスト


交響詩「ダンテ」(神曲)

第一部「地獄界」♪♪

ダンテの小舟               ドラクロア


                              ミケランジェロのフレスコ画をみたりて ドラクロア

                            おゝ 何とめでたき才能よ
                            時の経過によりて
                            消えかかりたる描線にては
                            威厳が刻まれたり
                            自らの中に
                            大ひなるものへの情熱が
                            目覚めたりけり
                            偉大にして美はしき絵画にひたれかし
                            今夜は「ダンテの小舟」に
                            取りかかりたり
                            流行(ハヤリ)の絵を描く為に
                            生まれ来たるにあらざるなり


第二部「煉獄より清浄界」
♪♪

ベアトリーチェ         ロセッティ


ベアトリーチェと言えば、ダンテの永遠の恋人である。「神曲」では、天上界にダンテを導く指導霊でもある。この絵画では、ベアトリーチェが瞑想にて、霊魂が苦悩を乗り越えて、天上界に上げられた時の様子が描かれている。



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